労働人口の減少と多様化が進む日本社会において、HRテックサービスの導入と社内浸透は企業の喫緊の課題となっています。一方、外国人労働者の増加に伴い、人事・労務管理システムの言語バリアを解消することは、企業の円滑な運営と従業員のウェルビーイングの両面で重要性を増しています。
クラウド人事労務ソフト「SmartHR」を展開する株式会社SmartHRでは、標準7言語に加え「やさしい日本語」にも対応するなど、先進的な取り組みを行っています。専門部署を設置し、単なる翻訳を超えた使いやすさを追求する同社の姿勢は、多様な人材が活躍できる社会の実現に大きく貢献しています。
今回はアクセシビリティ本部の坂巻氏とヴィクトル氏に、多言語対応の背景や課題、そして「やさしい日本語」という独自のアプローチによる課題解決への取り組みについて詳しくお話を伺いました。
「誰もがその人らしく働ける社会を作る」|アクセシビリティに重点を置いたプロダクト開発
ーーーご経歴と貴社の事業について教えてください
坂巻氏:
私はアクセシビリティ本部に所属しており、障害者を含む様々なユーザーが「使えない」という状況を防ぐ品質改善業務を担当しています。当社は「アクセシビリティ」を「使えるか使えないか」を左右する重要な指標と捉えています。特に障害者や少数派の方々が直面する障壁を取り除くことに注力していますが、さらに広い視点で「誰でも使える」を実現するため、外国人や外国語話者も重要な対象と考えています。
当社のアクセシビリティ本部では、障害者向けの対応を私のチームが担当し、ヴィクトルのチームが外国人向けの外国語対応や品質保証を担当しています。以前はエンジニアとしてWebアプリケーション開発に携わっていましたが、現在は5〜6名のチームで、障害当事者メンバーとも協働しながら品質改善に取り組んでいます。
ヴィクトル氏:
私は元々ロシア出身で、SmartHRに入社する前は経済情報関連サービスのプラットフォームで国際コンテンツ制作チームのリードを担当していました。SmartHRには2023年3月に入社し、約1年が経ちました。現在はプロダクトの国際化を含めて、開発チームと連携して外国人が使いやすいサービスの実現に取り組んでいます。
坂巻氏:
SmartHRの事業としては、人事労務管理クラウドを中心に展開しています。最初は会社の労務管理担当者が使うフロントシステムから始まり、従業員情報を登録・管理するデータベース機能、そしてそのデータを活用するタレントマネジメント領域へと拡大してきました。
具体的な機能としては、入社手続きや雇用契約の締結、従業員情報のクラウド上での管理、昇格・昇給の基礎となる人事評価システム、キャリア台帳やスキル管理、最適な人材配置をシミュレーションする機能、従業員満足度調査など多岐にわたります。また、従業員と企業間のコミュニケーションツールやお知らせ機能、ダッシュボードなども提供しています。
現在はプロダクト数が非常に多くなっており、従来の人事労務領域に加え、情シス領域や従業員ポータル領域などの新領域にも進出し、バックオフィス業務全体の効率化とより良い職場環境の構築をサポートしています。
ーーー貴社が多言語対応に取り組まれた背景を教えてください
ヴィクトル氏:
多言語対応を始めたきっかけは、お客様からの直接的な要望でした。カスタマーサポート部門に「日本語だけでなく他の言語でも使えるようになりますか」というご意見が寄せられ、それに応える形で対応言語を増やしていきました。
また、日本の労働人口構成も急速に変化しており、企業で働く外国籍の方の国籍も多様化していることから、対応が必要な言語も年々増えています。例えば、ある年はベトナム人が多かったのに、次の年はインドネシア人が増え、さらにミャンマー人も増えてきたというように変化のスピードが非常に速いのです。
ただし、世界のすべての言語に対応するのはあまり現実的ではありません。そこで、ある程度言語数を絞りつつも、対応できていない言語を話す方々にも使いやすいソリューションとして「やさしい日本語」の取り組みを始めました。これは、日本で働く外国人の多くは日本語をある程度理解できるという前提に立ち、複雑な表現を避けた日本語で情報を提供するというアプローチです。
坂巻氏:
多言語対応と「やさしい日本語」の取り組みは、当社のコーポレートミッションである「労働にまつわる社会課題をなくし、誰もがその人らしく働ける社会をつくる。」に直結しています。
当社だけでなく、日本のSaaS全体にとって、外国人の方々にどう使ってもらうかは今後ますます重要になってくる課題だと考えています。
ーーー現在はどのような言語に対応されていますか?
ヴィクトル氏:
現在、標準7言語とやさしい日本語に対応しています。対応言語は日本語のほかに、英語、中国語(簡体字・繁体字)、ベトナム語、韓国語、ポルトガル語(ブラジル)、インドネシア語、そして「やさしい日本語」です。
対応範囲としては、基本的に従業員向け機能はすべてカバーすることを目指しています。具体的には入社手続きはもちろん、婚姻などによる氏名変更の申請機能、勤怠管理機能にも対応しています。
特に外国人にとって難しいのが年末調整ですが、これもすべての対応言語で提供しています。年末調整は日本特有の制度で、外国人には理解しづらいものですが、多言語化することで正確な申告と期限内の提出率が向上したという声をいただいています。
ーーー企業と従業員間のコミュニケーション機能も多言語対応されていますか?
ヴィクトル氏:
チャット機能やお知らせ機能のインターフェース自体は多言語対応していますが、メッセージやお知らせの内容自体の機械翻訳補助機能はまだ提供していません。つまり、システム部分は各言語で表示できますが、ユーザーが入力した内容やメッセージについては、入力された言語のままとなります。
これは現在、多くのお客様から要望をいただいている機能であり、重要な課題として認識しています。例えば、日本人管理者が日本語でメッセージを送った場合に、外国籍従業員が自動的に母国語で読めるようになれば、コミュニケーションがスムーズになるはずです。将来的には何らかの解決策を提供したいと考えています。
坂巻氏:
多言語対応において重要なのは、単に言語を切り替えられるだけでなく、実際にユーザーが困らずに使えるかどうかです。システムの翻訳だけでなく、ユーザー間のコミュニケーションの翻訳も含めた総合的なソリューションを目指しています。
単なる翻訳だけではない|「やさしい日本語」がすべてのユーザーを取りこぼさない

ーーー「やさしい日本語」とは具体的にどのようなものですか?
坂巻氏:
「やさしい日本語」は、主に3つのポイントを意識して作成しています。1つ目は漢字をなるべく使わないこと、2つ目は難しい言葉を避けること、3つ目は文章量を減らすことです。
具体的な例をご紹介すると、例えばダッシュボード画面では「住所変更」という表現を「住所を変える」」といった形で書き換えています。他にも「削除」という言葉は「消す」に、「氏名変更」は「名前を変える」といった具合です。
年末調整の画面では、「扶養家族」に関する質問が頻出します。「扶養家族」は日本人でも説明が難しい専門用語ですが、年末調整を進める上で理解が必須です。そこで「あなたのお金で生活している家族はいますか」という表現に置き換えています。これは完全に同じ意味ではありませんが、制度を理解する上で十分な情報が伝わるように工夫しています。
また、漢字を使った方がわかりやすい場合は、括弧をつけて振り仮名を併記するなどの対応もしています。このようにして、日本語をまだ勉強中の外国の方だけでなく、視力が落ちてきた高齢者や、発達障害など読解に負担を感じる方々にも使いやすいインターフェースを提供しています。
ーーー「やさしい日本語」はどうやって開発しているのですか?
坂巻氏:
「やさしい日本語」は法務省が公開しているガイドラインをベースにしていますが、人事労務という専門性の高い領域では、ガイドラインだけでは対応しきれない部分があります。
例えば、法律用語や専門用語をどこまで簡略化できるかという問題があります。単純に言葉を置き換えると正確性が損なわれる恐れもあるため、当社では基本的なルールに沿って書き換えた後、社内で議論し、本当にわかりやすいかどうかのレビューを行っています。
また、人事・労務の専門知識を持つエキスパートにも確認してもらい、法的な正確性に問題がないかをチェックしています。このような多段階のプロセスを経て、最終的にお客様に提供する形になっています。
ーーー「やさしい日本語」の開発は大変そうですね
坂巻氏:
確かに一つ一つの表現を検討していくのは労力を要しますが、ルールやパターンが確立されれば、生成AIなどを活用した機械翻訳で自動化できる部分も増えていくと考えています。現在は立ち上げ段階なので、ルール化や体系化に力を入れており、将来的には効率的に拡張していける体制を整えたいと思っています。
「やさしい日本語」を開発した大きな理由の一つは、日本で働く外国人の国籍が毎年変化していくという現実があるためです。前述のように、ある年はベトナム人が多く、次の年はインドネシア人、その次はミャンマー人というように変化が激しいので、すべての言語に対応するのは簡単なことではありません。
そこで「やさしい日本語」を提供すれば、日本で働いている方は日本語がある程度わかる方が多いので、まだ対応していない言語の方でも使いやすくなるという狙いがあります。これは一種のユニバーサルデザインであり、多様な背景を持つユーザーに対応するための重要なアプローチだと考えています。
SmartHR導入をきっかけに、多様な従業員が「安心して働ける」という意識醸成へ
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ーーー具体的にどういった企業に「SmartHR」は活用されていますか?
坂巻氏:
多言語対応による最も顕著な効果は、外国籍従業員の業務理解度と効率の向上です。多くの企業では、以前は日本語のみのシステムを使用していたため、外国籍従業員が操作に困難を感じ、人事部や上司が個別にサポートする必要がありました。SmartHRに切り替えることで、それぞれの従業員が自分の母国語でシステムを利用できるようになり、業務効率が大幅に向上しています。
具体的な事例として印象的だったのは、英語教育業界のとある企業です。外国人教師が多く在籍するこの企業では、年末調整や入退社手続きの難しさが長年の課題でした。過去に導入したツールの英訳が不十分で、結局日本人従業員が間に入って説明しなければならず、実用化に至らなかった苦い経験をお持ちでした。
SmartHRを導入された決め手は、デモ環境で実際に外国籍従業員に年末調整のフローを試してもらった際、「とてもわかりやすい!」という反応が得られたことだったそうです。特に好評だったのは、質問にYes/Noで回答すると年末調整の申請がスムーズに完了できる点でした。
ヴィクトル氏:
その企業の担当者様からお聞きしたのは、「世帯主」という概念について外国籍従業員が困惑するケースが多かったということです。日本以外の国には世帯主の考え方がそもそもなかったりするため、理解できない言葉があると不安になるのは当然です。SmartHRでは、ぱっと見て分かりやすい表現を使った上で、ヘルプページでその意味を具体的に解説しているため、外国籍の方々にも安心してお使いいただけています。
導入後の変化も劇的でした。年末調整の期日通りの提出率が大幅に向上し、頻繁に催促する必要もなくなったそうです。それまでは紙ベースで郵送から始まり、「なくしてしまった」「わからない」という問い合わせに一つ一つ対応していたため、作業負担は「雲泥の差」だとおっしゃっていました。
坂巻氏:
どの企業にも評価をいただく点は、「みんなが同じツールを使える」ということでした。言語に合わせて異なるサービスを利用することで、どこか「心の距離」や「違い」を感じてしまう部分があったとのことですが、SmartHRでは日本人でも外国人でも同じように利用できるため、「みんな一緒」という感覚を持ってもらえているそうです。これは真の意味での「フェアネス」実現に向けた重要なステップだと考えています。
また、単に画面を翻訳するだけでなく、年末調整の英語版マニュアルなどのサポートコンテンツも高く評価いただいています。企業内で英訳資料を作成し、制度変更に合わせて毎年更新する場合、準備だけで3〜4日かかっていたとのことでしたが、導入後は当社提供の資料を利用し、半日程度で完了するようになったそうです。
ヴィクトル氏:
この事例で印象深いのは、人事労務システムが単なる業務効率化ツールではなく、多様な従業員が「安心して働ける」という意識につながっているという点です。特に初めて日本で働く外国籍従業員にとって、自分たちがちゃんと守られているという安心感を提供できることは、企業と従業員双方にとって大きな価値があると考えています。
本当の意味で「誰もが使える」サービスの実現を目指す

ーーー競合他社との違いはどのようなところにありますか?
坂巻氏:
HRテック業界では多くの競合がいますが、当社の大きな強みは、単に言語数が多いというだけでなく、専門部署を設けて「本当に使いやすいか」を重視している点です。翻訳すれば問題解決というわけではなく、その翻訳が実際にユーザーにとって理解しやすいか、使いやすいかという点まで踏み込んで対応しています。
SmartHRのコーポレートミッションは「労働にまつわる社会課題をなくし、誰もがその人らしく働ける社会をつくる。」というものです。この「誰もが」という部分には当然、外国人も障害者も含まれています。皆がその人らしく働けるためには、言語や障害などの身体に限定しない環境が必要です。
多言語対応に加えて、当社のサービスデザインそのものが、すべての従業員が使いやすいように設計されているという点も重要です。企業規模や業種を問わず幅広くご利用いただいており、高齢者が多い業界や、これまで紙ベースでの業務が中心だった現場の方々にも、初見で直感的に使いやすいデザインを心がけています。「使いやすさNo.1」というのは、当社が特に重視している点です。
デザイン面での配慮も重要なポイントです。私が担当しているアクセシビリティの観点からは、誰でも使いやすく、使いにくい状況が発生しないような工夫を行っています。
具体的には、文字の色や大きさにルールを設け、可能な限りの視認性を確保したり、色覚多様性に配慮して、色の見え方が異なる方にも情報が正確に伝わるよう検証しています。日本人男性の場合、約20人に1人は何らかの色覚特性があるとされており、そうした方々にも使いやすいよう、色の選択や組み合わせに配慮しています。
他社でも多言語対応の取り組みはされていますが、単なる翻訳を超えた使いやすさの改善に継続的に取り組み、「やさしい日本語」のような独自のアプローチも開発しているのは当社の大きな特徴だと思います。今後も翻訳以外のソリューションや、他社にはない工夫を続けていく予定です。
ヴィクトル氏:
私が感じる当社の強みは、技術的な対応だけでなく、ユーザー視点に立った問題解決を重視している点です。「外国籍従業員がシステムを使う際に何に困るのか」という観点から課題を洗い出し、単なる翻訳以上の解決策を提供しようとしています。
また、当社のシステムは多言語対応だけでなく、直感的に使いやすいUI/UXデザインを基本としているため、ITリテラシーに関わらず多くの方に利用いただけるというのも大きな強みです。高齢者や外国人を含め、だれでも簡単に使えることを最優先に考えた設計は、他社との大きな差別化要因となっています。
ーーー外国人ユーザーへの配慮で特に重視していることは?
坂巻氏:
最も重視しているのは、ユーザーが自分で使いやすい方法を選べることです。外国人の方々の状況やニーズは実に多様です。例えば、日本で長く働いていて日本語が堪能な方は、あえて母国語ではなく日本語でシステムを使いたいと考えるかもしれません。日本語力を向上させたいという目的を持つ方もいると思います。
そういった方でも、専門用語や難解な表現に出会ったときには「やさしい日本語」を選択できるという選択肢があることで、スムーズに業務を進められます。また逆に、日本語はまだ苦手だけれど、母国語での対応がない場合でも、日本で仕事をしている方であれば「やさしい日本語」で基本的な操作は可能になります。
ヴィクトル氏:
私自身、外国人として日本で働いた経験から感じるのは、単に母国語で表示されるだけでは解決しない問題も多いということです。例えば日本特有の制度や考え方は、単に言葉を置き換えただけでは理解できないこともあります。
そのため、単純な翻訳だけでなく、背景にある考え方や制度の説明も含めたコンテンツを提供することが重要です。また、文化的な違いによる誤解が生じないよう、表現の仕方にも配慮しています。
坂巻氏:
最終的に目指しているのは、単に言語が切り替えられるということではなく、本当の意味で「誰もが使える」サービスの実現です。言語や文化的背景、障害の有無にかかわらず、すべての従業員が円滑にコミュニケーションを取り、業務を遂行できる環境を作ることが私たちの使命だと考えています。
編集後記
今回のインタビューでは、株式会社SmartHRが単なる多言語対応を超えて、真の意味での「誰もが使える」サービスの実現を追求している姿勢が印象的でした。
特に、「やさしい日本語」という独自のアプローチは翻訳だけでは解決できない課題に対する解決策であり、外国人労働者だけでなく、高齢者や障害者を含む幅広いユーザーに配慮した設計思想を体現しています。
加えて、同じツールを使うことで生まれる一体感や安心感は、多様化する労働環境において極めて重要な要素です。専門部署を設置し、当事者の声を取り入れながら継続的に改善を重ねる姿勢は、他社にはない強い競争力となっているでしょう。
労働人口の減少と多様化が進む日本において、言語や文化の違いを超えて、すべての従業員が安心して働ける環境づくりの重要性を改めて認識する貴重な取材でした。SmartHR社の取り組みが、日本の働き方改革のモデルケースとなることを期待します。